昨日の母親はいつになく不機嫌で、僕がいってもなかなか会話をしようとしません。

 

それでも、こちらから今日はどう?寒くない?昨日は寝れた?ご飯は食べた?と返事を期待して話かけるのですが、返答はすぐにはなく僕もとうとう、座りこんでしまいました。

 

僕は毎日顔を見るだけでもいいと割り切っているのですが、こういう状態が毎日だときっと行っても仕方ないと考えてしまう家族の方がいるのはわかる気がします。

 

顔を見るっていっても、見るだけで帰ってくるのに片道1時間も往復2時間かけていけないよ。

 

そんな方がいましたがわかる気がします。

 

母に、昔の写真もってきたよ。見ない?と聞くと

 

なんでそんなもんもってくるんだ?

 

懐かしいかなと思って。

 

 

懐かしい?冗談言うんじゃない。昔に今更戻れるわけでもない、思い出なんてなんの意味もない

ただ死ぬのを待つ身なんだよ、わかるかい?あんたに。

 

 

そうなんだね。

 

90歳になってもう先も未来もない。そんな風になったらなにを目標に生きる?なにを楽しみに生きる?

 

うん・・

 

なにもないのさ。生きてる意味がわからない。

 

 

僕は困ってしまいました。

この質問はおそらく数回されています。母にです。

その都度その都度考えましたが答えは見つからないでいます。

 

生きるということはなんでしょう?死ぬのを待つばかりだと考えている人に生きる意味をどうやって見出させるのでしょう?

 

自分がそうい年齢になったときに、同じことを考えるでしょう。

そうしてきっと答えが見つからないままでいるとここで止まるはずです。

 

仏教的には人生は修行だと言われています。

90歳ともなれば修行は最終章の最後の方に差し掛かるはずです。

 

完成は亡くなるときと考えると、後数年か、数十年か。

 

残りの人生を残された残存機能で楽しむこと以外には、もはやなにもありません。

 

私は若いころから考えていたんだよ。でも答えを見つけられないままこの年まで来てしまった。

あんたは、自分で答えを見つけなさい。

 

母はそういえばかなり学生時代は優秀な人でした。

優秀なゆえに、ここで考えてしまうわけなんです。

 

 

僕は優秀じゃなくてよかったのかもしれません。