子供のころに父親にもし火事になって、子供と奥さんとどっちかを助けなきゃいけないという場合には

どっちを助ける?と聞いたことがありました。

 

父親は即座に、それは奥さんに決まってるだろう。

子供はこれからもまだ作ることができるけど、奥さんはたった一人だ。だからどちらかという選択なら奥さんだよ。

 

 

 

そういわれて大変にショックでした。

 

そうか、いつでも切り捨てができるんだ。

親子とはそういうものか・・・

子供心に思ったことがあります。

ちょうど小学校4年の夏。そのころから父親との距離を取り始めました。

 

父と話すときはこの頃を境に敬語になり、父もそれを咎めることもなく結局、20歳代のあたりまでは父親には基本的に敬語を使ってきました。

 

逆転したのは40歳代でしょう。

そのころは、もはや父は糖尿の悪化でかなり体調は悪くなっていました。

僕は40歳代、父が60歳代。

 

父に食事のことや仕事のことを意見するようになり、その頃からは敬語からは変わってきました。

何を言っても言う事を聞くこともせず、医者の話も聞かないという医療機関からは問題患者として扱う事例になってきていたのです。

 

そもそも、高校は理数科、大学は数学科の出身なので、同じ理数系の医師を下に見ることがあります。

データをみて話す医師に、自分も血液検査データを多少勉強して難しい質問を繰り返し、担当医師に担当は僕じゃないほうがいいと思いますと、息子である僕に言ってきたことがありました。

つまらない喧嘩をするのもどうかと思い、医師を変えてもらうようにお願いしました。

 

次に担当になった医師は父を持ち上げて話をするタイプの医師で、すごいですね!さすがですね!と連発して父も言い合いになることも無くなりました。

父親の優秀さを僕も遺伝するとよかったのですが、まったくその遺伝子は僕にはなく、父の計算力や記憶力はひとつも遺伝しませんでした。

今でも覚えているのは、いろいろな役所の電話番号を内線まですべて覚えているのです。

札幌市役所の福祉部とか、道庁の医療政策部とか、厚労省の医政局、内閣府大臣官房や総務省、自治省など電話帳も見ずに暗記していました。

電話の話を聞いていても、数字がやたら出てきますが、何か資料を見て行ってるわけではなく、丸暗記してるのでしょう。

 

父のおそるべき能力でした。