幼少期の頃は母は仕事にでていたので、その代りにおばあちゃんを母は呼びよせて一緒に住んでました。

これは今でも一般的にはよくある話です。

 

 

母は朝から夜遅くまで働き、かえってくるのは夜の22時過ぎていました。

朝9時~17時までと、18時~21時過ぎまでと二か所で働いていたのです。

 

それほど家計がきつかったという事なのです。

特に父が家から会社を閉めてしまって自宅には借金取りが来るようになり、そうすると休みも働きに出ないといけない状況になりました。

 

子供ながらその状況を知っていたので、新聞配達などもしてたという事なのです。

 

おばあちゃんは、もちろんその状況を知りやってきたわけです。

 

夜の日本酒の一杯がおばあちゃんの楽しみでした。

飲みながら、孫に歌を歌わせるという毎日でした。

 

次はかずやだ、歌いなさい!

 

拒否することもできず、おばあちゃんの歌の次は僕と決まっていました。

気持ちよくなって、2曲、3曲とおばあちゃんが歌を歌い、そのうち眠たくなるとしめたものです。

 

ところがそんな日はそうそうあるわけではなく、週のうちに2日は僕も歌を歌うのです。

 

今日はなにを歌んだい?また校歌はダメだよ、聞き飽きたからね。

 

西城秀樹を歌います!

 

当時の歌謡曲は西城秀樹や野口五郎、郷ひろみという御三家と沢田研二などがテレビをにぎわせていましたので、なんとか歌を見ながらの練習、雑誌を買って平凡とか明星という雑誌があったのですが歌の歌詞が載っているのです。

それを購入して歌の練習をするのです。

 

今日は70点とか80点とか点数をつけるのもおばあちゃんの楽しみでした。

 

 

僕は母のいない間、おばあちゃんにご飯を作ってもらったり弁当を作ってもらったりしてましたので、その恩義になんとか報いるのに必死でした。

 

歌を人前で披露することが恥ずかしいなんて言っていられない状況だったのです。

 

明治37年くらいの生まれだったはずです。

日本橋で喫茶店を開業して、多くの著名人の方が来店していたお店だったと聞きます。

 

なにかの理由でまた根室に舞い戻り、そこで子育てをして札幌までやってきたわけです。

どれほどの苦労をしたのか、はかり知れません。

 

僕はおばあちゃんっ子だったのです。