高校生の時に、僕は硬式テニス部と放送局と写真部に所属していました。

 

写真部は写真を撮るのが好きで、現像する機器が自宅になかったためで、学校を使って現像をしていました。

今は現像していくことなんてのはほぼないことでしょうけど当時は必要でした。

街の写真を現像するお店にいくと、3日くらいで現像が終わり紙になって出てくる時代でした。

一枚30円とか。

 

しばらくすると、ヨドバシカメラなんかでデータを印刷する自動の機械が出現しました。

お金をいれてデータを紙にして出すのです。

デジタルカメラが出てきて撮影データをSDカードなんかに保存しているのが普通になりました。

 

同時に放送局に所属して番組の企画をしていて、それに硬式テニス部に所属。

 

体が一つでは足りないわけです。

案の定、先輩から呼び出しを受けて、今のままならどっちもダメになると君のためによくないので、どちらかを選択をするようにと言われ、放送局を一時中断して、2年時には放送局を休局しました。

硬式テニスに少しばかり打ち込み、朝練と放課後の練習、土日の練習としてました。

ところが、基礎練習をあまりしない僕に先輩はあまりいい顔をしていなく、僕も高校生のころは生意気でしたので、結果を出せばいいんでしょ?というと、何度か殴られたりしたものです。

 

2年時に全道大会で全道ベスト16位になったのを機に、また放送局に戻り始めました。

 

あの時なんであんなに部活をやってたんだい?

 

母が聞きます。

 

さぁ。なんでだろうね。やりたいことを全部やりたい子供だったから。

 

中学までは温室にいるみたいに、運動はダメ、食べ物はこれとこれだけってやりすぎちゃったね。

 

まあ、仕方ないよ。病気が見つかってなにもできなかったんだから。

 

ちょうど僕は16,17歳のころは母は30歳で出産したはずですので、47,8歳だったはずです。

僕がいきなりいろいろな運動をし始めるのを、じっと耐えてみていたのです。

今から考えると辛かったはずです

 

それでもやり続けることに反対をしなかった母はすごいなと思うのです。

 

今日は朝から薬を飲まないんです。息子さんからなんとか飲ませてください。

気が付くと介護士さんが僕に話しかけてきます。

 

はい、わかりました。

 

薬?必要なものは飲むよ。でもなんのための薬なのか説明されないと飲むわけないよ。

 

母は今日もそういっていました。