昨日のブログに、子供のころに喘息で心臓が悪くと書いたんですが、心臓の事はブログには書いていましたが喘息に関しては書いていなかったので、喘息だったんですか?と聞いてくれた方がいました。
そうなんです。小児喘息でした。
運動できなかったのはこの両方があったからなんです。
心臓だけだと、本人はそれほどわからないので運動してしまっていたかもしれません。
喘息は階段を上がるだけで喘鳴して、動けなくなりましたので、運動などはまったくできない状態でした。
小学校の運動会の思い出も、先生のいるテントの下でみんなの競技を見守っていた事しか経験がありません。
それが運動会の思い出でした。
それでも、母も父も運動会には来てくれて、一緒にお弁当を食べました。思い出とはそのくらいでした。
当時は転地療養といって、空気のいい田舎に引っ越す事がゆういつの治療法と考えられていた時代でしたので、母は本気で札幌から、地方の田舎に引っ越そうと考えたようで、雪のない苫小牧とか、少しでも温かい函館などを考えていたようでした。
実際には母も仕事をしており、当時は斗南病院勤務でした。みなし公務員でしたので転勤願いを出してもなかなか受理されないようでした。
また田舎にいくと、心臓の小児心臓外科の専門の先生がいないというのも母の悩みの種でした。
その為に、結局は札幌にとどまることになるのです。
いつもゼイゼイと喘鳴をしている僕を家において、仕事にいくのは辛いことだったと思います。
そんな幼少期でした。
中学生になり、少しづつは喘息が治りつつあり、体育なども少しはするようになってきました。
以前も書きましたが、小学生4年の頃、それと中学2年で僕は新聞配達を決意します。
それは親にお使いをもらうのが嫌だったことと、自分の健康の為でした。
新聞を配ることは簡単なようで大変なことです。
雨でも、雪でも嵐でも決めたことをやり遂げないといけません。
誰もまだ起きてない室内をそっと歩き、着替えて外にでます。
冬は大雪のこともありましたが、母が先に起きて小道をつけて除雪をしてくれたのでしょう。
玄関前と、道路までは道がついていました。
子供のころは気が付かないことでしたが、感謝してもしきれない事があるのです。