親と子の関わり方というのは難しいものです。
兄弟でも温度差があり、親子でも温度差も方向の違いもあります。
先日弟がしばらく母のところに顔をだしていないので、連絡をしました。
返答がメールできたのですが、行っても認知が進んでいて、話が通じないので行っても仕方ないだろうからいかないと返事がきました。
そういうものでしょうか?
人それぞれ感覚も感性も違います。
幼少期にどう親に扱われたかで、親に対しての思いも違うでしょうし、悪く扱われたからと言って、親に対しての思いが深い方もいると思います。
弟は、18歳になる前にはもう家をでてしまっていましたし、その後20年以上も親とは連絡をとらないできましたので、母親に対する思いは当然に僕とは違うのかもしれません。
僕は特別に疾病をもって生まれたために、親に心配をかけてしまったという気持ちが強くあり、弟とは違うのかもしれません。
でも、認知にしても疾病にしても今が一番いいはずです。
今後一日一日と悪くなります。
今よりいい日があったとしても一時的でしょう。
現に母は1年前は一人でお風呂もトイレも行けましたし、一緒にごはんを食べていました。
固形のものを食べ、一緒にお菓子を食べながらテレビを見ていたんです。
弟にそういって、話しをしたところ、黙ってわかったと言ってくれました。
それぞれの思いは同じではありません。
会いに行く事の意味を自分の中でみい出すかどうか。
その違いしかありません。
世の中にはきっと僕より、親に対しての思いを深く感じ、会いに行く人もいるでしょう
きっと、行く事に意味を見出さない人もいるのかもしれません。
疑問に感じる人、なやみながら世話をする人もいることでしょう。
でも、行動がすべてです。
以前に一度だけ書きましたが、僕が以前に仏道修行をしていた時に、僧侶の方になにか質問がある人と聞かれた時に、僕はひとつ質問をしました。
魂があるとしたら、その魂をもっとよりよいものにできるとしたら、その修行とはなんでしょう?
冷たい水に打たれることですか?厳しい修行をすることですか?
仏教の僧侶がこんな話をするのはおかしいと思うかもしれませんが、汝、敵を愛せよという言葉がキリスト教であります。わかりますか?
いえ。わかりません。
汝敵を愛せよとは、キリスト教の教えで、自分を敵だと思う相手でも慈愛をもって接していきなさいというイエスの教えの事なんです。
仏教では、赦すということが、魂を引き上げてくれると考えられています。
基本的にはキリスト教と一緒です。
事の善悪は、どれが善でどれが悪なのかは時代によっても違いますし、正しい事がほんとに正しいのかなんてことはわかりません。
親とのかかわりだって、一生懸命にやることが正しい事なのか、それとも違うのかわからないと思うのです。
ただ、自分の中で許容できるかどうかはその人の器なのです。
魂の大きさは、その人の器の大きさです。
器を大きくすること、その方法が人を許すという事です。
僕はこの話を僧侶の方からしていただいたときに、自分の考えを根本から変わったのです。
そっか、そう言う事なんだと思ったのです。
僕のつたない文章で伝わる人がいるかどうかわかりませんが、読んでくれた人に少しでも伝わってくれることを祈って。