毎朝の日課で行う事として、行っている方も多いと思いますが、神棚にお水を取り替えて、神様にお祈りをします。

 

祈るという行為が人によっては自分の欲をぶつけちゃいけないと教える方もいます。

しかし、祈りという事は、自分の願望を古来よりお願いする事をいいますので、過度な欲求や法律的に、おしくは常識的におかしな願いじゃなければいいと思います。

人を傷つけたり、その願望を成就することで不利益を被る人がいてはいけません。

 

そもそも信仰とは願望をかなえるためのものであったはずです。

それは今も昔も変わりません。

 

 

神様のお祈りが終わると、デスクに設置してある仏壇に手を合わせます。

そこには僕自身が修行をした真言宗の不動明王と大日如来様がいます。

 

お札は、新栄寺と、新勝寺、京都の智積院、手稲の蔵王寺のお札があり、それと父の写真が祀っています。

 

父が60歳代前半でしょうか?

洞爺湖の遊覧船に乗っているときの写真です。

 

この時の父はもう僕は家を出てしまっているのでわかりませんが、病院を経営して3軒の病院と老人保健施設の運営をしていました。

 

が、国の政策で保険の適応が減らされ同じことをやってても医業収入が減らされてしまい、四苦八苦しながらの経営だった時のものです。

 

きっとこのころは苦労していただろうな~っと思いながら、毎日父の写真を見ます。

 

何百人もスタッフを抱え、月給料の支払いだけで数千万。

その支払いを工面する事に奔走していた時代が数年続いたのです。

 

父の苦労はその後報われることもなく、医療法人は、他の人にわたります。

 

設計事務所を運営していて、たまたま病院の設計を任されただけだった父が、その病院の経営者になるだろうとは、そのころは思いもしなかったことだったに違いありません。

 

それも、25年ほどで幕を下ろすのです。

 

あの時、父がおまえは、うちの病院の経営をやる気があるのか?との話に、即答でないと言った日。

そっかと、寂しそうな父の顔を思いだす度に、僕がやって経営がうまくいくわけもないですが、少しでも

力になれたのかなとかんがえる日々です。

 

選択が間違ったのか。どうだったのか・・・たまに考えるのです。