自分の開業の直前のあたりには父親の経営する医療法人のリハビリテーション科に一時期勤務していました。

父は、もともとは建築事務所というか設計事務所というか、簡単に言えば不動産ブローカーでした。

もともとは理数科出身でしたので頭はよかったのでしょうけど、いろいろとこだわりが強くてやっかいな人でした。

息子の僕は父に似ていなくどちらかというと、こだわりのない母に似たのだろうと思います。

父が建設した中堅クラスの病院でしたが、そこが理事長の医師が経営がずさんで、下手だったために1年目に赤字決算でした。

お金を貸していた銀行はびっくりして、建設をまとめた父に責任をどうするんだと詰め寄りました。

そのために2年目からは父が運営をするようになったのが、この医療法人でした。

法律はいろいろ変わります。

当時の医療法では、医師以外が経営者のトップである理事長にはなれませんでした。

アメリカあたりでは経営と現場は分かれているのが当たり前なのに、当時の日本は追いついていませんでした。

父は、理事長にはならずに二番手の専務理事となり、現場では事務局長になって陣頭指揮をし始めました。

40歳代のころだったろうと思います。

当時の父のイケイケの経営は病院経営にも向いていて、どんどん新しい機器をいれはじめ、MRIを100ベット足らずの病院に入れ始めました。

その後病院を4軒に増やし、赤字の病院をどんどんと吸収合併して、さらには社会福祉法人も設立し老健施設なども運営しはじめました。

 

おそらくこの頃は40歳代後半から50歳代。

父の一番いい時代でした。

その後、国は保険を絞り始めました。保険財政の破綻機器から、同じことをやっても同じ金額が入らないという医療が儲けるのは悪という風潮ができ始めました。

 

当時、どんどん広がりを見せていた渓仁会などもここのあたりで広げるのを止めただろうと思います。

 

僕が大学を卒業し、鍼灸の免許を取得したころに父の医療法人でも働くことになりました。

 

現場主義の僕と、父の経営目線とは対立することがしばしばあり、最終的にはやめることになります。

 

この頃の夢を見たんです。

昨日の夜でした。

 

父と経営方針を巡っての対立する構造まで一緒でした。

 

医療を食い物にしてはいけないと主張する僕と、経営をしていく必要があり、従業員に満足なお金を支払う必要がある父との対立でした。