僕には血縁のない叔父がいました。
そう、父の弟になる人です。
彼は、42歳で亡くなりましたが、僕にはとてもよくしていただきました。

孤児であった父を引き取ってくれたご夫婦に引き取ってから生まれた初めての子供でした。
皮肉なものです。ずっと子供ができなくて里子をもらったというのに、もらった後に子供ができるなんて。

父はどんな思いだったのか、またご両親はどんな風に思ったのか・・・今からでは知る由もありませんが、
父は幼少期にはそんな子供時代を過ごしたはずです。

父は元来優秀だったのだと思いますが、その頃に家があった阿寒町の阿寒高校に入学します。
今でも阿寒高校は存在していますので、どんな高校なのか、一度行ってみたいと思っています。
その後1年で転校し、釧路に移ります。
この時は、なぜ釧路に移ったのか、理由ははっきりしません。
父は転入試験を受けて、釧路地域で一番だった湖陵高校の理数科に転入学します。

湖陵高校では卓球部に所属して高校総体で全道一位、全国大会も出場していますので運動神経も恵まれていたのでしょう。

弟の方は、釧路で職業訓練の学校を卒業しますが、その後札幌に移転して、札幌の電気設備会社で働いていたようです。

どんな時代であったのかはわかりませんが、仕事には困らずになんとか生活しているようでした。

僕の記憶では小学校、中学校当時は叔父は化粧品会社に働き始めていました。
もともと、おしゃれな人でした。皮製のジャケットや皮のパンツをはいてる姿を覚えています。
叔父が就職したレブロン化粧品は、本社が合併しMAXfactorとして、世界企業になりました。
そこの北海道の広告宣伝部の担当でした。
僕が高校1年から化粧品会社でバイトできたのも叔父のおかげです。

僕は高校1年から、百貨店のマックスファクターの催事の手伝いをしていました。
時には函館や釧路、旭川と地方の百貨店での催事の手伝いにも行ったのです。

叔父から大学でたら化粧品会社なんていいんじゃないか?と就職を進められた事もありました。

その叔父も42歳で肝臓がんで亡くなってしまいました。
僕はまだ30歳にもなっていなかったと思います。

今日母とそんな話を施設でしていました。

母は、人には運命があるから。決められた寿命だよ。仕方ないんだよ。

そうぽつんと言っていました。